ムラブリ族(黄色い葉の精霊)の現状と未来

−危機言語と言語学者の役割−

坂本比奈子

(麗澤大学)

 

はじめに

 

消滅の危機に瀕した言語、あるいは間もなくそうなるであろうと予測される言語に対して言語研究者はなにができるか?この問いは、消滅の危機に瀕した言語の研究者としては、かけだしもいいところである私にとっては重すぎる問いである。しかし、21世紀初頭の現在、言語学者はこの問題とどう関わるのか、先ずは、一般の方にご理解頂けるよう努力しなければならない。本講演会の目的の一つはそれであろう。

本講演では、消滅の危機に瀕した言語の一例として北タイのほんの小さな民族を取り上げる。彼らは、つい20−30年前まで、他民族との接触を避けてジャングルの中を移動して歩き、狩猟採集によって生活していた、きわめて原始的と見なされている民族である。そんな民族の言語や文化を記録したり、保存したりすることにどんな意義があるのか、ご理解頂ければ幸いである。

 

1. タイ国内の危機言語

 

タイは、周囲をビルマ、ラオス、カンボジアに囲まれており、国境地帯の山岳には多数の少数民族がいる。これらの民族の多くは焼き畑農耕を行い、国境を越えて移動していたので、タイ政府は長らく国籍を与えず放置していた。ここで取り上げるムラブリ族もそのような民族の一つである。また、タイには40−50の言語があるとされるが、現在では人口の90%近くをタイ系言語の話者が占めている。タイ国内には現在、消滅のおそれがある言語が15あるといわれているが、消滅の危機言語という意識をもって調査研究しているタイの研究者は例外的である。

 

2. ムラブリ族とは?

<呼称>

自称は「ムラブリ」mla?bri で、 mla?「人」 briは「森」を意味するムラブリ語である。タイ、ラオスでの他称は「ピートンルアン」phit康lμaNで、phiは「お化け、精霊」、t康は「バナナ等の葉」、lμangは「黄色」を意味するタイ語、ラオス語である。現在のタイでの公式名称は、「トンルアン」t康lμaNとなっている。タイでは少数民族の呼称を、差別的ニュアンスのある他称から自称に切り替えるようになってきているが、mla?bri はタイ人には発音できないという事情があるので「お化け」の部分をとった「トンルアン」になったものであろう。外国では The Spirits of Yellow Leaf 「黄色い葉の精霊」として知られる。

 <現在の居住地と人口>

タイ国内では、プレー県ローンクワン郡フワイホム村に117名(2001年1月)、その他の郡に20数名、ナーン県ヴィエンサー郡フワイヨク村に104名(1999年5月)、その他に数10名いると推定される。ラオス国内には、20数名と確認されている。

<ムラブリ語>

ムラブリ族は自らの言語を「ムラブリの口」(chμmbep mla?bri)と呼び、他民族の言語と明確に区別している。その言語には他民族の言語が多数入っているが、オーストロアジア語族モン・クメール語派のカム語に近いといわれる。Rischel(1995) は、タイのナーンのムラブリ語に2グループあり、プレーのムラブリはその1つに入るとしている。

<民族の起源>

ムラブリ族の起源に関しては不明である。人種はモンゴロイドであるが、東南アジア、中国南部に広がっていたホビアン文化の採集狩猟民との類似を指摘されたり、古代は平地にいたものが他民族に追われて山の中に入り、環境に適応するために文化的に退行したものではないかといわれたりしている。

3. ムラブリ族の歴史

ムラブリ語には文字がなく、また、なんら伝承というものを持たないので、その歴史は他民族による証言しかない。しかし、この民族は古来他民族との接触を避けて、ジャングルの奥深く移動していたために文献中の記載もわずかであるが、その簡単な歴史を整理してみる。

<タイ文献中のムラブリ族>

 ムラブリ族は19世紀以降、ラオスのサイヤブリ県からタイへの移住が続いていた。タイ各地でその発見の記録がある。

<外国人の記録>

 カー・トンルアン族という名称の民族が、1924−26にかけて報告されているが、現在のムラブリであるかどうかは疑義がある。Bernatzykがタイのナーン県ナムプンでムラブリとの出会いに成功し、Bernatzyk(1938)により、幻の民「黄色い葉の精霊」のイメージが定着する。Bernatzykは、他称が「ピートンルアン」で、自称がYumbriとしている。言語的には同一グループであろうと見なされているが、果たして、今日のMla /bri と同一民族かどうかは確実ではない。

<Siam Societyの調査報告>

 1962−63年にSiam Society(タイ学会)の調査隊がナーン県で調査を2回行い、Mrabri という名称を報告した。その言語資料から、今日のムラブリと同一言語であること、他民族とは一線を画す民族であり、言語であることがいえる。

<1970年代>

 1970年代初めには、プレー県でも食べ物を求めて山から下りてくるムラブリ族が目撃されている。その背後には、戦争、開発、定住を促進する政府の少数民族対策の変化などがあった。'70年代終わりには、ローンクワン郡の現在の定住地に20人くらいがいて、メオ族の畑仕事を請け負って、食べ物をもらう生活が始まっていたらしいが、ほとんど知られていなかった。一方、平和が近づくと、ナーン県のムラブリ族は、人類学者、言語学者の関心を引き始める。

 <1980年代>

 ナーン県で、言語学者、Soren Egerod とJorgen Rischel、Tongkumの調査が始まる。1982年に、プレー県でアメリカ人宣教師ブンジューン(Eugene Long)氏が、ムラブリ族と出会い救済のための活動を開始した。ブンジューン氏によると、メオ族にこき使われ、メオの下で焼き畑を行うことは、「森の人」であるムラブリ族にとっては生活基盤を破壊する自殺行為に等しく、悲惨この上ない状態であった。ブンジューン氏は、彼らのために生涯を捧げる決意をする。氏は、彼らの独特の言語・文化をできるだけ損なわないという原則の下に、彼らの生き残りに必要と思われる最低限の文明化を図り、定住させることに成功している。1983年、バンコクのある会社が、自社の物産展の呼び物として、ムラブリ族をバンコクに連れて行き、全国に知られるようになる。ナーン当局は、観光業者に協力してムラブリ族を観光の道具化する。またNHKが取材に来て伝統的生活を撮影した。(今回お見せしたビデオはその番組で、NHKの許可を頂いている。

<1990年代>

 Rischel (1995)"Minor Mlabri"が出版され、ムラブリ語に少なくとも2つのグループがあることが明らかになる。

<2000年8月>

 ブンジューン氏とその支持者の働きにより、プレー県に定住するグループに国籍が与えられた。定住が条件であるため、定住度が低いナーン県のムラブリには与えられなかった。

 

4. 2001年5月現在のムラブリ族

 

以下に述べることは、現在、プレー県のフアイホム村に住む人々に関する筆者の知見に基づくものである。

フアイホム村は、低層の山間にメオ族約600人の集落があり、500メートルほど上がったところに、2組の宣教師家族の家と、学校、養魚場、ハンモック工場を囲むように、20軒あまりのムラブリの家が建っている。

<人口>

2001年1月現在、プレー県ローンクワン郡フワイホム村のムラブリの人口は、2001年1月現在で117名、女性が53名、男性が64名である。定住しているとはいえ、絶えず出入りがある。20歳以上の大人はすべて推定年齢で小児も推定の場合が多い。平均年齢は20.4歳、最高齢は64歳である。下の分布図で15−16才人口が突出しているのは、自己報告の場合、他の人に合わせるためによく起こることである。その年齢がムラブリ族の結婚年齢であることと関係があると思われる。ムラブリ族は生涯に何度も結婚し、多数の子どもを作るが、幼児の死亡率が高いため、人口増加は今のところみられない。

 <世代差>

プレーのムラブリ族の平均寿命は不明であるが、ナーンでは35.5という数字があり、世代交代が早いため、変化のスピードも我々の常識を越えていると考えるべきである。

高齢世代(41−64 才)

壮年期までジャングルで暮らしてきたので伝統的生活習慣が身に付いている。

中年世代(25−40才)

子ども時代をジャングルで暮らしたので、伝統を一部継承している。

若者世代(15−24才)

20才以上は、ジャングルで生まれた者もいるが、多くはジャングルの生活を知らない。ジャングル生活の記憶をもつ人でも、技術は継承していない。   

未成年  (0−14才)

多くはここの村で生まれたので、ジャングルの生活はまったく知らない。

  

<衛生状態>

 ブンジューン氏の教育目標の一つは清潔である。ここでは、シャワー室があり、大人も子どもも夕方にはシャワーを浴びて、衣服を着替える。マラリヤは下のメオ族部落にも発生するため、根絶が困難で、今年も子供を中心に10数名の患者がいる。幼児は出血熱で死亡するケースが多数ある。成人に多いのは皮膚病である。

<生業>

 主に他民族(メオ族、タイ族)の耕作の請負、採集狩猟(小動物、蜂の巣、山芋、パルプの原料等)、竹の容器、籐の篭、蔓草の袋、敷き物等の製作を行っている。作品はすべてブンジューン氏が買い上げて、製作を奨励している。ものを作って売ることを学習させようとしているのであるが、村の技術者はすべて高齢者で、若者は技術を受け継いでいない。この民族はきわめて原始的生活者であるにもかかわらず、鍛冶の技術を持つことが謎の一つであった。しかし、現在、村で鍛冶をしているのも、高齢者の数名のみである。その代わり、若者は銃を作ることができる。

 

<言語生活>

 北タイの言語階層は、H言語が標準タイ語で、その次に北タイの共通語である北タイ語、少数民族語がくる。少数民族語の中でも階層があってムラブリ語は最下位に位置する。ムラブリ族の言語使用状況は世代によって異なり、高齢者世代はムラブリ語と北タイ語(あまり上手ではない)、中年世代は北タイ語と標準タイ語(あまり上手ではない)となり、若者世代は、ムラブリ語、北タイ語、標準タイ語を巧みに使い分ける。こどもは、保育園に入るまではムラブリ語のみで、保育園に入ったときは、ムラブリ語とタイ語、学校ではタイ語のみで教育を受ける。学校教育は、現在のところ、小学校3年で終了であるが、ほぼ完璧な標準タイ語を身につける。ムラブリ族の言語習得能力の高いことは驚異的であるが、読み書き能力は劣るようである。Rischel によると、ナーンの2グループのムラブリは、100名以上の大グループαムラブリと20数名のβムラブリに分かれていた。両者は行き来がなく、敵対視していた。βは、多言語話者で1時間のうちに、4言語(ムラブリ語、ティン語、メオ語、北タイ語)のコード・スイッチを観察したという。今までのプレーにおける調査の範囲では、メオ語が達者な人には出会っていない。いたとしてもあまり大勢ではないと思われる。若者同士の会話では、ムラブリ語とタイ語のコード・スイッチが頻繁に観察された。若者はラジオをよく聞き、村に1台テレビがある。タイの放送はすべて標準タイ語で行われる。

プレーのムラブリとナーンのムラブリの間には行き来があるが、言語的に同一グループと見なすことの妥当性には検討の余地がある。Rischelによると、声調のようなイントネーションがある点や、男性語女性語の区別がない点が共通しているので、プレーのムラブリ語はナーンのαムラブリ語と同じグループであるというが、語彙の点から見ると、プレーのムラブリ語とβムラブリ語が一致する場合もあり、さらに詳細な研究を要する。

<1999年8月以降の変化>

 ムラブリ族がその人口においてきわめて少なく、かつ文化的にも原始的であるにも関わらず今日まで生き延びたのは、他民族と最小限の交渉しか持つことなく、政府の干渉も受けることなく暮らしてきたからであろう。しかし、国籍を取得し国民として統合されると、国民としての権利、義務が発生し、もはや今までのムラブリでいることは許されず、変化の道を急速に走り出している。彼らが新たに手に入れた権利は、選挙権、移動の自由、就業の自由、運転免許取得の権利、福祉サービスを受ける権利、等々であり、一方、義務として、定住、タイ語による教育、兵役、等が発生してくる。この2年足らずの間に目に見えて変化が起こっている。ムラブリ族は、精霊の禁止に従って農耕も牧畜もしなかったといわれるが、政府から種子や、ひよこ、子豚などが無料配布され、村中に豚小屋、鶏小屋が見られるようになった。寄付の品が大量に贈られて来るようになり、生活全般の向上が著しい。服装がよくなり、全家庭に数枚の毛布がいきわたっている。草屋根はほとんどなくなり、トタン屋根の家が増加した。2年前には、かなり空腹の人がいると見られたが、今回はそのようなことはなかった。現金を持っている人が増えたらしく、それを当て込んでアイスクリーム売りや豚肉売りのタイ人が村に入って来ている。

 

5. 今後予想される変化の要因

<環境的要因>

 森林資源がますます枯渇し、狩猟採集は行われなくなるであろう。周辺民族の影響も大きく、北タイ地方のタイ人は、現在、大きな家を新築し、海外旅行に行くなど豊かな生活を送り、伝統は廃れつつある。他民族の若者はタイ人に憧れている。メオ族は結束の強い民族で伝統を維持しているが、若い世代は近代化を望んでいる。ムラブリの若者も同世代の他民族の影響を強く受けている。欲しいものは車やラジカセなどである。

<政治的要因>

 国籍取得により職業選択の自由が与えられ、夢が膨らんでいる。学校教育は、いずれ義務教育が完備される。現在、タイの行政当局の対応は、プレー県とナーン県では大きく異なっている。プレー県の行政はブンジューン氏の実績を尊重し静観の構えであるが、本音はもっと発展を促進すべきだと思っている。もし、雨期でも通行できる道路が完成し、電気が来たら、一気にムラブリの同化が進められる可能性が高い。ナーン県の行政は、観光の道具として利用することを望んでいる。ムラブリの現状固定化のために、森林を確保してそこに住まわせるという案まで検討されたことがあるという。

<ムラブリ文化に内在する変化の要因>

 ムラブリ族には物質文化がきわめて少ない上に、採集狩猟という生活形態を離れて彼らの文化を維持することは不可能であるから、その文化の維持は不可能である。また、民族衣装やムラブリ独自の音楽、踊りもないので民族の統合の象徴となりうる要素がほとんどない。現在では、儀礼、伝説、民話などもない。昔はこどもが生まれると耳に大きな穴をあけるのがムラブリ独自の習慣として意識されていたらしいが、現在では、もはや廃れている。彼ら独自の習慣は周囲の民族とかけ離れているため、差別の対象となりやく、隠したり、廃れたりしてきたようである。さらに、ムラブリ族の間には、家族関係を越える社会組織がなく、リーダーもいない。15才くらいで結婚すると親から独立し、基本的には一夫一婦とこどもで暮らしており、現在でも種々の理由により定住地を離れて核家族で仕事を求めて移動して歩く者は後を絶たない。従って、ムラブリの文化には民族の結束を強める要素が非常に少なく、その継承はきわめて困難であると思われる。

以上述べたことから明らかなように、ムラブリ文化の保持、保存はきわめて困難であると思われるが、言語に関しても楽観は許されない。現在まだこども世代が学習しているとはいえ、若年層ではタイ語教育が進み、若者世代ではタイ人と接触する機会が増えていけば、言語移行の可能性がある。さらに、同化が進んで人口が減少すると、他民族との結婚が増加し消滅を加速すると考えられる。ムラブリ族は、昔は外見が他民族と非常に異なるため差別をうけてきたが、清潔な衣服を着け、食糧事情がよくなってからの世代は体つきも顔つきも周辺民族とさして変わらず、言語能力が高いことから、同化は容易であると推測される。Rischelによると、最後に会ったβムラブリたちは、病気の高齢者一人、女性が数人、こども1人で、女性たちは他民族と結婚し、こどもは養子にやられたということであった。人数が多いとはいえ、若者が山を下りて行き、結婚相手がなくなったら、女性たちが他民族と結婚する可能性は高いから、αムラブリも民族として消滅する可能性もある。

6. 「危機言語」と言語学者の役割

話者数からいうと、ムラブリ語は「危機言語」である。今ここでこれをすれば、「危機言語」になることをストップできるという方法があれば、直ぐ実行したい。しかし、現状は真っ暗である。

<言語の記録>

 とりあえず言語学者にできることは、言語の一次資料を残すことである。しかし、危機言語の記録は、通常の自分の研究データを集める場合とはかなり異なってくるはずである。後世の研究者に役立つような資料でなければならない。できるだけ多くの語彙、テキストを収集し、文法、辞書を残さなければならないのはもちろんであるが、民族としてまとまりが弱い場合には、言語に個人差が大きく、どれを代表的言語と決めるか不可能である。方言、世代差、性差を考慮するとたいへんな作業になる。言語学ばかりでなく、人類学、民族学、社会学的研究の資料となるすべての資料を収集するべきである。例えば、語彙は音韻や文法あるいは比較研究のためだけでなく、それ自体、民族の文化項目の目録でもある。例えば、JSS(1993)に北タイ8言語の対照表が載っている。それによると、220語中、ムラブリ語に見いだされなかった語彙が64語あり、建物に関する語彙、生活用具語彙の多くや、年月日を表わす語、金銭、を表す語彙などが欠如している。この事実は、その当時のムラブリの生活が、周辺民族と比べていかにシンプルであるかを写している。ムラブリ語に多数あるといわれる借用語彙の研究は、民族接触の歴史の一端を明らかにする可能性を秘めている。例えば、ムラブリ語の中には、古代から現代までのタイ語が多数借用されていて、ある語彙は古代タイ語の音を残しているのである。例えば、 hlμμN「黄色」、hlek「鉄」、 hmiaN 「ミヤン」、hloN 「迷う」などにおける hl- は、現代タイ語ではl- であるが、古代タイ語においてはhl- であったと推定されている。いつ、どういう経路でムラブリ語に入ってきたのか、興味ある問題の一つである。

消滅の危機に瀕した言語の多くは、僻地に取り残され、昔ながらの生活を続けている民族の言語である。そこには、我々がとうに捨て去ってしまった昔の智恵が詰まっている。エコロジカル・バランスの智恵である。民族語固有の語彙には、民族に固有な概念・認識を示すものがある。このような語彙の研究は、大げさにいえば、新しい人類の生き方を示唆する可能性があり、そうした智恵が、地球を救う鍵となる可能性もある。しかし、どの語彙にどのような認識が潜んでいるか、にわかにはわからないのであるから、できるだけ多くの語彙を収集しなければならない。

<記録方法>

 現代のテクノロジーを利用して、写真、映像による記録を残すことも重要である。本講演において、18年前のNHK の番組を使わせて頂いたのは、映像記録の重要性を強調するためでもあった。これがもっと学術的記録であればたとえようもなく貴重な記録となり得たことはいうまでもないが、これでも貴重な記録である。言葉がなくなるということはものがなくなることと平行して起こるから、いくら言語を記録しても、写真・映像がなければそれは死んだ記録である。もし、写真や映像があれば、文化の復活がどんなに容易になるかはいうまでもない。限られた時間で、テープ・レコーダー、カメラ、ビデオを使って記録するのは、たいへんな作業になるが、これが我々に課せられた使命である。

<研究成果の還元>

 言語集団に結果を還元することは、現地調査をするすべての言語学者に課せられた義務となりつつある。その意味で言語学は、前世紀とはまったく違った学問となりつつある。とりわけ、消滅の危機に瀕した言語の場合は、知ってしまった者の義務とでもいうのであろうか、データだけもらってさよならということは許されない。しかし、お返しに何ができるかと問われて、明確な答えをもつ言語学者は希であろう。私自身は大いなる無力感に捕らわれているが、とりあえずできそうなことを列挙してみよう。 

ムラブリ語は無文字言語であるから、理想的な書記体系を作って、ムラブリ族に学習してもらうことは、すぐできることである。幸いプレーでは、ブンジューン氏が既にその仕事を始めている。しかし、文字は使う機会がなければ廃れてしまうので、文字を読んだり書いたりする機会も同時に作り出さなければならず、これは困難な仕事である。

少数民族は、自分たちの言語の価値に気づいていない場合が多い。ムラブリ族が自分たちの言語にどういう意識をもっているかまだ不明であるが、調査を通じて話し手に自分たちの言語・文化の価値を認めさせるよう努力することは、言語保持への第一歩であろう。昔話や言い伝えなどがあれば、それを語り伝える機会を作ることもいいきっかけとなる。ムラブリ族には、伝承がほとんどないと思っていたが、夜の大人の教室でみなが集まっているところで昔話をしてもらった際、たいへん盛り上がり、楽器が出てきて手拍子で歌い出したのは驚いた。組織力のない民族なので、ちょっと手を貸すことが大切なのかも知れない。

研究を継続的に行うためには、地元タイの研究者と協力する必要がある。将来的には話し手の中からムラブリ語の教師、研究者を養成することを目指すべきであろう。

 

参考文献

Bernatzyk, Hugo Adolf (1938)"DIE GEISTER GELBEN BLAETTER"

(英語版)(1951) E.W.Dickes"The Spirits of Yellow Leaf" 

(日本語版)大林太良(1994)『黄色い葉の精霊』アジア文庫 平凡社 初版1968

Egerod, Soren and Jorgen Rischel (1987)'A Mlabri-English Dictionary'

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Phukacon and others(1998)"狩猟民族にしてタイの少数民族「ピートンルアン」に関する研究"(タイ語)タイ芸術局国立図書館

Rischel, Jorgen and Soren Egerod (1987) 'YUMBRI  AND MLABRI(Phi Tong Luang)'Acta Orientalia 48

Rischel, Jorgen (1995)" Minor Mlabri"

Seidenfaden, E. (1926) 'The Kha Tong Lu'ang' JSS 20

Tongkum,Theraphan (1992) 'The language of the Mlabri(Phi Tong Luang)'"The most primitive ethnic group in Tailand"( by Phukacon and others) 

Tongkum,Theraphan (1976)'ムラブリ族(ピートンルアン)に関する研究:過去と現在(仏暦1924-1995)'(タイ語、1996年10月タイ学会国際大会発表原稿)

ナーン県トーンルアン族問題委員会(1999)"ナーン県トーンルアン族問題検討報告"(タイ語)

 

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