生物多様性と言語の多様性

-オセアニアの視点から-

 

大西正幸
(名桜大学)

 

1.序

 わたしたちの参画している「危機に瀕する言語」プロジェクトは、失われつつある言語の多様性の保持に向けて方策をたてるという課題を抱えており、その一環として、消滅しつつある少数言語の詳細な記録/記述を行うことが当面の課題として課せられている。このことに関連して、わたしたちは、言語学の方法論や言語学者の役割を根本的に問いなおす時期にきていると言えよう。この問いには、わたしが考えるに、次の三つの側面がある。

 

(1)  今の言語学の理論・方法論は、多様な言語の記述・分析という課題にどのように向き合うのか。

(2)  「言語の多様性の保持」のために、言語学者と一般の人々との間の相互理解・共同作業は如何になされているか、またなされるべきか。

(3)  「言語の多様性の保持」という課題は、人類が今直面しているさまざまな課題の中でどのように位置づけられるべきか。それとの関連において、言語学と他の学問領域との関係はどうあるべきか。

 

今日の峰岸さんの講演は、今の言語学の方法論の妥当性をめぐる問いを提起している点で上の第1点に関わるものであり、また第2点に関しては、今回の講演会でもいろいろな角度から取り上げられている。わたしの今日の話は、上の第3点に関わっており、言語の多様性の保持という課題を、言語だけでなく、人類を取り巻く自然・社会環境の多様性の全体的な保持という課題の一つとして、他の学問領域とクロスさせながら扱う方向に向けての、ささやかな試みである。

 標題の生物多様性 biodiversity、言語の多様性 linguistic diversityという言葉は、最近よく使われている。生物多様性 biodiversityという言葉は、1992年にリオデジャネイロで開かれたいわゆる地球サミットで採択された「生物多様性条約」Convention on Biological Diversity以来、市民権を得たと言えよう。地球の自然資源の多様性を維持し、その持続的な使用を目的として、いわゆる「先進国」が、多様な自然資源の保有国である「後進国」に対して果たすべき役割を規定したこのような条約に、「先進国」をはじめとする世界中のほとんどの国々(アメリカを除く)が調印したということは、逆に言えば、「先進国」の限りない自然搾取がもたらした深刻な環境悪化によって、もはや「先進国」自身も地球上の自然資源の枯渇を目前にし、何とかせざるをえない状況に追いつめられたという事情を反映している。

 一方、言語の多様性 linguistic diversityという言葉も、多言語主義 multilingualismとの関連で話題にされるようになってきた。前者は一定の地域に多言語が共存する、ないし一つの言語に多様な要素が混在する状態を表すのに対し、後者は、一義的に、そのような状態を積極的に守る・ないし創り出す政策・態度等を指す。急速に進むグローバリゼイションの中で、各地域・民族の文化・言語の多様性をできる限り保持すべきであるとの考えは、今後次第に世界の共通認識となっていくことが予想される。

 ところで、昨年出版されたNettle and Romaine 2000では、このふたつの言葉を繋げた生物言語多様性biolinguistic diversityという合成語すら使われている。今確かに少数言語の多様性が危機に瀕している多くの地域で、生物の多様性もまた危機に瀕しているという状況が生まれている。そのような現状について考える手がかりとして、本論では、自然に存在する生物の多様性と、人間の所産である言語の多様性に、どのような歴史的関係があるかを、オセアニアの自然環境と言語状況の歴史と現状を中心に考えてみたい。

        

2.生物多様性と言語の多様性の中核地域(ホットスポット)

 Nettle and Romaine 2000の指摘によれば、大まかに言って、希少生物の多様な地域も、少数言語の多様な地域も、赤道を中心に分布している。

 生物の多様性が赤道に近ければ近いほど増すということはよく知られているが、その理由として、生物学者は、赤道付近の太陽エネルギーの量の多さ、季節・周年の気候の安定、面積の広さ、という3つの自然条件(ESA)と、赤道に近づくほどそこに住む種の分布域が狭くなり特定の生息環境(niche)に依存する(ラパポルトの法則)という種の特性をあげる(Wilson 1992)。北に棲む生物は変動の多い気候に適応せねばならず、従って広い生息環境に順応できるし、種の数は少ないがひとつの種に属する個体数は多くなる。熱帯に棲む生物はその逆で、種の数は多いがひとつの種に属する個体数は少ない。

 Nettle and Romaine 2000にあげられている、Williams, Gaston and Humphries 1997による、希少(高等)生物の密度をもとに作られた地図を見ると、生物多様性の高い地域は、環太平洋地域の東側は、アンデス高地やアマゾンを中核とし、北はカリフォルニアから南は南米の北半分を覆う地域、そして環太平洋地域の西側は、東南アジアからその島嶼部を経てメラネシアおよびオーストラリア北部に至る地域である。世界自然保護基金(WWF)や国際自然保護連合(IUCN)のような環境保全団体が、世界保全戦略の一環として、地球上で最も環境保全上重要な地域(ecoregion)として選ぶ地域(たとえばGlobal 200)も、赤道周辺に多い。

 一方、同じく同書のNettle 1998による地図は、国毎の言語分布の(面積あたりの)密度を示すが、その中で描かれた密度の濃い地域は、やはり赤道を中心に南北回帰線に挟まれた範囲に集中している。話者数が千人、百人単位の少数言語が集中している地域は、環太平洋ではやはりメラネシアと中南米地域であり、地球規模の言語状況を考えた場合、今後それらの地域にある言語が存続するかどうかで、個別言語の数の面での多様性に最も大きな影響を及ぼす、言語の多様性の中核地域(ホットスポット)と言えよう。

 以上のように、現在、生物の多様性と言語の多様性の分布には共通性が多い。この分布は、歴史的に、なぜ、どのように生じたのか。

 

3.人類史における生態系破壊とテクノロジーとしての言語

 人類が登場する前の新生代における生物多様性は、地球史の上での頂点に達していた。大陸移動による陸塊の細分化と気候条件が主な原因である。この多様性の増加に、最も貢献したのは、熱帯雨林である(Wilson 1992)。

 人類という「未来を食べる者」(“future eaters”, Flannery 1994の造語)による、この頂点に達した「生物多様性」の破壊は、人間のテクノロジーの飛躍的な進化に対応している。Diamond 1992, Diamond 1998, Flannery 1994等を参考にして、わたしはその歴史を、大まかに4段階にわけて考える。

 まず10万年から5万年前の大進化great leap forward、即ち人類が、狩猟採集の生活を送る中で、生態系の円環をはじめて脱出して、生態系を部分的に支配するにいたる段階。

 第2に、1万年あまり前より、農耕と家畜化の技術が発見され、自然の大規模で組織的な均質化をもたらすことが可能になった段階。特にユーラシア大陸のメソポタミアと中国で発達した技術が大陸全体に拡散し、ヨーロッパや中国周辺では、大幅な人口増加と冨、情報の蓄積をもたらすこととなった。

 第3に、ヨーロッパにおける中世以降の、「銃」と「病原菌」と「鉄」と、そして「情報・知識量の優位」による、他地域の征服と植民化、自地域における効果的な冨の集中システムの確立と産業革命、その結果起きた持続的な自然資源の収奪とさらなるテクノロジーの発達、情報の集積。

 そして最後に、20世紀になって、第3段階を経た「先進国」の、石油、原子力等のエネルギーを使った巨大テクノロジーの発達と、圧倒的な量の情報の占有により、生態系破壊がミクロ・マクロのレベルで地球規模に起きる段階にいたる。

 これらひとつひとつの段階において、言語の獲得および言語をめぐるテクノロジーの飛躍的な発展が、大きな役割を果たしたものと思われる。

 Diamond 1992, 1998の仮説によれば、人類の大進化の原因となったのは言語の発生だという。Flannery 1994は、人類は30-40万年前にすでに言語の音声が発声可能な咽頭の発達が起きているとして反論するが、たとえそうであったとしても、その時期が言語の発生と一致しなければならないという証拠はない。わたしには、言語という強力なテクノロジーの獲得が、人類の進化における最大の飛躍と全く同時に起きたかどうかはともかく、この二つが密接に繋がっていたという仮説には説得力があるように思われる。

 その後の3段階の人類史における飛躍についても、社会の中央集権化、情報の蓄積と操作等の面で、言語が獲得したテクノロジー面での発達が大きな役割を担ったと考えられる。第2段階では、文字の発明があり、第3段階では、印刷術の発達により、定型化・均一化された文字が多くの人々に共有され、膨大な量の知識・情報の蓄積と伝播が起きる。そして、さらに第4の段階では、IT技術の発展により、情報のさらに飛躍的な蓄積と伝播の高速化が起き、言語の質が再び変容しつつある。それぞれの段階での言語をめぐるテクノロジーの発展が、社会制度や経済システムの革命的な変化と密接に繋がっている。そしてそれに伴う生態系破壊の組織化、大規模化とも。

 

4.オセアニア史における生物多様性と言語の多様性

4.1.第一波の人々

 人類がはじめて、東南アジアから、今のオーストラリアとパプアニューギニアがひとつであったサフル大陸に移住したのは、5−6万年前のことである。Flannery 1994によれば、はじめてサフル大陸の、現在のアラフラ海にあたる肥沃な土地を中心に移住した人々は、人口が増えるに従い、大型の草食獣や魚介類を滅亡や減少に追いやりつつ沿岸沿いに進んだものと推測される。このことによって生態系のアンバランスが起き、オーストラリア大陸の乾燥化が徐々に進む原因ともなったであろうことも推測されている。

 その証拠として、デイプロトドンなどの多くの大型哺乳動物や大型爬虫類、鳥類の化石が、オーストラリアやニューギニアでは3万5千年頃前までに姿を消したという事実、さまざまな動物が現代に近づくに従って小型化していく「時間小人化」現象、数万年前の地層で急速に炭素の量が増えていること、等々があげられる(Flannery 1994)。また、傍証として、人間が生態系の処女地に入った時にとる、他の場所での一般的な行動パターン、つまり北米、マダガスカル、ニュージーランドなど、世界各地で、ちょうど人間が移り住んだ時期に、気候条件に拘わらず、大型哺乳類や走鳥類が激減している事実もあげられる(Wilson 1992, Diamond 1992)。Flanneryの仮説に対しては、オーストラリアのある種の大型動物の消滅が移住後かなり長い期間かかっていると思われることなどから、単純化しすぎているとの批判もあるが(Mulvaney and Kamminga 1999)、先住民の移住が、サフル大陸の自然環境に、初期の段階で撹乱をもたらしたことに、疑いの余地はあるまい。

 先住民となったかれらの生活形態は、この最初に起きた生態系撹乱によってバランスを失いかけた自然環境と再び折り合いをつける中で決定されていく。北部の一部を除けばきわめてやせた海陸の環境を持ち、また周年の予測が難しい気候変化(エルニーニョ)にさらされ、特殊な限られた環境に合わせて進化した多様な、しかし決して個体数が多いとは言えない生物たちが共生する、特異な自然環境と共存するため、人々は限定的な狩猟採集に頼り、火つけによる自然管理を行い、少数の人口よりなる部族毎の移動生活を維持する。寡少なエネルギーの循環によって成立する地域ごとの生態系に適応した生活・文化形態が、オーストラリア全体の生態系の中にはめ込まれてそれぞれ一定の位置を占める。その結果として、生物多様性と言語・文化の多様性とが、全体としてみれば、ある均衡状態に達する。

 一方、ニューギニアに移り住んだ人々は、沿岸部の湿地と熱帯雨林の、マラリアの多い、食物の確保の難しい、厳しい環境の中で持続的に生きていくことは困難であったはずである。ここでも大型の哺乳類は早く激減し、かれらはサゴヤシの澱粉を中心に、小型獣、魚介類から得られる僅かなタンパク源に頼る、不安定な生活をしていたに違いない。高地に進入してようやく、安定した焼畑ないし輪作の根栽農業を行い、定住による小部族単位の生活が保障されるようになった。最も古い「農耕」の趾は、9千年前の、ニューギニア高地で発見された灌漑施設である(Golson 1977)。

 農耕といってもユーラシア大陸のそれのように僅かな種類の穀物と家畜による大規模かつ集約的な農業ではない。焼畑ないし輪作による、小規模な、根栽やバナナ等の栽培であり、多くの場合、野生種の自然管理との中間的な形態をとる。地形の複雑さ、集約的な農業に適する植物種の不在、限られた人口等のため、自然環境の大規模な平準化は起こり得なかった。狩猟採集に大きく依存するため周辺の環境における生態系は最大限保たれ、個々の部族もまた自然のさまざまな小環境の中で自立して生きていくことになる。ここでもまた、全体的に見て人間生活と生態系との間に共存に基づく均衡が生まれ、人間の生活とそれを囲む生物の存続が多様なまま保たれ、その結果として、言語の多様性もまた、平衡状態のままで保たれることとなった。

 

4.2.第二波の人々

 3千6百年前になって、オーストロネシア語族の言語を持った人々が農耕技術とブタ、ニワトリ、イヌといった家畜を携えてメラネシア島嶼部に現れる。彼らはすでにニューギニアおよびその周辺の島嶼部に住んでいたパプア系言語を話す人々と接触しながらニューギニアやメラネシアの大きな火山島の沿岸部、小さな島々を占拠し、さらにポリネシア、ミクロネシア東部に広がって行った。移動の当初、どの島でも哺乳類や鳥の過剰な捕獲、近海での海産物の採集、さらに焼畑農耕によって生態系が大きくバランスを失う。小さな島々ではそのまま資源の枯渇とともに人々が滅びたり、他の島に移らざるをえなくなることもあった。たとえばイースター島では、移住当時島に生えていた重要な樹木、鳥などを滅ぼしてしまい、またニュージーランドでは初期の乱獲によってモアなどの大型走鳥類やアザラシなどの海の哺乳動物が滅びるか激減した。人口増加と生態系の劣化が飽和点に達した時点で、両島ともに、人間の生存に危機的な状況が訪れたことが推測される。多くの場合、こうした危機を乗り越え、島毎の生態系に合った生活様式、島の地質・地理・気候条件に合った農耕・漁撈技術を獲得する。

 結局メラネシア島嶼部の陸島ではパプア系言語との共存による言語の多様化が起き、ポリネシアやミクロネシアでは島毎に言語が発達することとなった。

 

4.3.ヨーロッパ人渡来前のオセアニアーまとめ

 オセアニア地域では、第一波、第二波の人々を含め、狩猟採集や限定的な農耕の段階にあり、ユーラシア大陸の人々のように第2、第3段階の大規模な生態系破壊をもたらす段階に進まなかった。言語は文字を獲得せず、自然の多様な小環境の中での生活と世界観を反映し、またその小環境の情報の宝庫としての役割を担う。そしてそのような言語の多様性は、オセアニアの生態系の多様性に大きく依存している。

 オセアニアの中でもメラネシアとオーストラリアは、人類が移住する5−6万年前までが、自然の多様性という点では頂点だったと言えよう。人類の移住とともに、人間活動の自然破壊によって生物多様性はある程度失われるが、その過程で人類は特殊な生態系と折り合いをつけつつ生活基盤を築くすべを学び、固有の言語を発達させていった。このような人間の営みと生態系がマクロな視点から見て飽和状態に達した時、その時点での生物多様性と言語の多様性が全体として平衡を保ちつつ共存することになった。大航海時代にヨーロッパ人が到来する前のピーク時、オセアニア全体では、千数百を数える言語、世界全体の言語数の約4分の1から5分の1に当たる言語が話されていたと考えられる。

 

5.オセアニアにおける平衡状態の崩壊

5.1.「銃」、「病原菌」、「牧畜/農耕」

 Dixon (1997) は生物学の用語を使って、安定した多言語共存の状況を平衡状態 equiribrium、またそのような平衡状態を破る大きな変化を断続punctuationと呼んだ。第2波のオーストロネシア語族の人々の移住もこの枠組みで言えば断続であるが、その大部分は無人の島々に住みついたので、結果的にはオーストラリアやメラネシアの既存の言語の平衡状態を破壊することはなかった。オセアニアの生態系と言語の平衡状態の大規模な崩壊を招いたのはヨーロッパ文明の到来である。

 ヨーロッパ人の到来によって最も大きな打撃を受けたのはオーストラリア先住民であろう。1788年のイギリス人入植以来、オーストラリアでは、文字通り「銃」と「病原菌」によるアボリジニの大量虐殺が行われると同時に、かれらの伝統的な生活の場であった多様な生態系は、牧畜、農耕、鉱山開発によって破壊されはじめた。白人到来時数十万人と推定される人口(Mulvaney and Kamminga 1999)が、1901年に行われた国勢調査では、約6万人に減っていた。それだけでなく、居住地を追われ、家族からの隔離政策のため、母語の喪失を事実上強制された結果、言語数、話者数の大幅な減少を招いた。これも白人到来前、250以上と推定されていた言語が、1980年時点で約150、その内話者数が数百人から数千人単位の言語が約50と記録されている(Dixon 1980)。つまり、アボリジニ自身の直接的な破壊と、かれらの生活を維持していた自然環境の多様性の破壊が同時進行で進み、それに伴ってかれらの継承してきた文化・言語の多様性の崩壊が起きたのである。

 一方、ニューギニアを含むメラネシア島嶼部は、その熱帯性気候とマラリア等の風土病の壁が厚く、部分的にキリスト教宣教師や植民地政府関係者等との接触、そして下に述べる商業貿易活動の一環としての商人たちとの接触はあったものの、文明による大規模な破壊という直接の影響を今世紀の半ばまで免れた。

 

5.2.開発、貨幣経済

 オーストラリア、メラネシアおよびポリネシアの一部では、ヨーロッパ人をはじめとする外からの文明との接触は、典型的に開発、そして貨幣経済の侵入という形で現れた。そのさきがけとなったのは、18世紀後半からはじまるナマコ、アザラシ、鯨等の海洋資源や白檀等の陸上資源の開発と取り引き、そして19世紀後半からはじまる、サトウキビのプランテーションやゴールドラッシュによる鉱山開発等である。その過程で、外の世界とのコミュニケーションの道具として発達したのが、ピジン、クレオル等の接触言語である。主にプランテーションが温床となって、ニューギニアを含むメラネシア全域とオーストラリアのクイーンズランド州に、英語やフランス語を主なベースとしたピジン、クレオルが発達し、広まったことはよく知られている。

 20世紀になると、多様な自然環境に依拠する地域ごとの伝統社会の自立性がよく保たれていたメラネシア中核部にも文明の直接的な影響が及び、太平洋戦争と、その後続く組織的な漁業・ロギング(多くは日本など、海外の企業が絡む)によって、先住民の生活環境は大規模な破壊にさらされるようになった。さらにそれと並行して、貨幣経済がメラネシアの奥地にまで浸透し、自給自足に基づく伝統的な経済生活の破壊が急速に進む。このような状況の中で、若い世代の間には、自分の言語から、より通用範囲の広い、より高度なテクノロジーと情報を備えたクレオル語やヨーロッパ語に乗り換える傾向が出てくる。ある場合には伝統的な生活環境の崩壊によって半ば強制的に、ある場合には、少なくとも表面的には若い話者たちの自由意志により。Nettle and Romaine 2000は、上の5.1.で述べた直接的な圧力によって言語が失われて行く状況を生物学的波biological waveと呼び、それに対し、開発等によって生じる経済活動に伴って、強い言語に付加価値が生まれ、その結果話者の選別によって言語が失われて行く状況を、経済的な波economic waveと呼んだ。現在メラネシアの多くの場所で言語の多様性が急速に失われていく大きな原因となっているのは、開発による自然環境の多様性の喪失という物理的な要因と、若い世代のより強い言語への乗り換えという「経済的な波」の二つである。

 

6.展望-ブーゲンヴィルを例として

 論の最後に、わたしが関わっているブーゲンヴィル島の現在の言語状況について簡単に触れながら、今までの議論を少し整理したい(大西2001参照)。

 ブーゲンヴィルの状況はメラネシアで起きている状況の典型的な例である。ブーゲンヴィル本島はパプアニューギニアの東のはずれ、ソロモン諸島との国境沿いにある、四国の2倍ほどの面積の、島の中心部は熱帯雨林に覆われた火山島であり、十数万の人口によって、パプア系8言語、オーストロネシア語族11言語の計19言語が話されている。この島の北に接するブカ島には、約2万9千年前の遺跡があり(Spriggs 1997)、ブーゲンヴィル本島にパプア系の言語が強力に存在することからも、ニューギニア本島から渡ってきた第一波の人々が、この島に古くから住んでいたことは確実である。19世紀から本格的にはじまるヨーロッパ人の商人、宣教師、植民地政府の役人たちとの接触、太平洋戦争における日本軍の占拠などによって伝統的生活にさまざまな変化が生じたものの、1960年に島の南部でパングナ銅山が発見されるまでは、この島の大部分の地域において、部分的に狩猟採集に頼る焼畑農業を中心にした自給自足経済、指導者(ビッグマン)の精神的権威と母系中心の親族関係の網の目に支えられた、相互扶助を旨とする伝統社会の枠組みは守られていた。

 パングナ銅山の開発と貨幣経済の侵入は、大規模な自然破壊とともに、ブーゲンヴィルの伝統的土地組織、経済生活の崩壊をもたらした。この銅山の開発は1975年、パプアニューギニアの独立によって銅山からあがる収入がパプアニューギニア経済の主要な財源を構成することになった結果、さらに加速された。また、銅山開発と並行して、島の各地では、現金収入のため、ココアなどの植林が大規模に行われるようになった(たとえば、Connell 1978)。貨幣経済に基づく消費生活に惹かれた若い世代は、島の各地、ニューギニア本島やオーストラリアから来る人々との間のコミュニケーションの必要性と、英語を媒体とした公教育の導入に助けられて、自分の言語を英語や、英語をベースにしたクレオルのトク・ピシン語に移行させる傾向が次第に顕著になった。

 このように、銅山開発による自然環境の破壊、伝統的生活の崩壊、ニューギニア本島との間の民族問題、古い伝統的な生活を送ってきた世代と貨幣経済に惹かれる若い世代との間のギャップ等、さまざまな要因が絡み合って、ブーゲンヴィルでは、1989年の地元の地主たちによる銅山の実力閉鎖を機に、ニューギニア政府との間の内戦がはじまり、それが約10年間に亘って続いた。ようやく一昨年、和平調停が結ばれて、今島の復興が端緒についたばかりである。

 一方、若い世代が地域の言語・文化を継承しないことに危機感を抱いた地元住民、特に教員などの知識人たちを中心に、1980年代のはじめから、ブーゲンヴィル島の各地で、トクプレス(地域語)運動という、識字教育を中心とした2年間の初等教育プログラムが行われてきた。今、島の復興と同時にこのプログラムを復活しようとする力強い動きがある。

 このような教育プログラムは重要であるが、今まで述べてきたように、言語の多様性は、自然環境の多様性と密接な関係にあり、後者と切り離して前者を長期的に維持することは難しい。どうしてもブーゲンヴィル島全体をひとつのecoregionと見て、持続的な発展が可能な総合的な開発・環境政策を立て、言語教育をそのひとつの構成要素として位置付けていく必要がある。教育プログラム自体も、識字教育だけでなく、環境教育などの要素を組み合わせた総合的なパッケージにすることによって、言語の重要性に対する認識を深めさせることが可能になる。

 言語学者は言語研究の専門家であると同時に、一人の研究者として、対象地域をトータルに見、発言していく責任を負っている。言語の記録保存を行い、地元の人々の言語継承のいろいろなかたちに協力していく一方で、他の専門領域の人々と協力しながら、地域全体が長期的に多様性を保っていけるような環境づくりに向けても協力・発言していくべきである。そのような方向性の中で、生物多様性と言語の多様性はキーワードとなりうる。

 

 

参考文献

Connell, John. 1978. Taim bilong mani: the evolution of agriculture in a Solomon Island society. Canberra: The Australian National University.

Diamond, Jared. 1992 (1991). The rise and fall of the third chimpanzee. London: Vintage.

Diamond, Jared. 1998 (1997). Guns, germs and steel. London: Vintage. [「銃・病原菌・鉄」上下、倉骨彰訳。2000年。草思社。]

Dixon, R.M.W. 1980. The languages of Australia. Cambridge University Press.

Dixon, R.M.W. 1997. The rise and fall of languages. Cambridge University Press. [「言語の興亡」、大角翠訳。2001年。岩波書店。]

Flannery, Tim. 1994. The future eaters. Kew, Victoria: Reed Books.

Flannery, Tim. 1998. Throwim way leg. Melbourne: Text Publishing.

Golson, J. 1977. No room at the top: agricultural intensification in the New Guinea Highlands. In: Allen, J., J. Golson and R. Jones (eds), Sunda and Sahul: prehistoric studies in Southeast Asia, Melanesia and Australia, pp. 601-38. London: Academic Press.

Mulvaney, John and Johan Kamminga 1999. Prehistory of Australia. St Leonards: Allen and Unwin.

Nettle, Daniel. 1998. Explaining global patterns of language diversity. Journal of Anthropological Archaeology 17: 354-74.

Nettle, Daniel and Suzanne Romaine. 2000. Vanishing voices. Oxford University Press.

大西正幸。2001年予定。「ブーゲンヴィル島シウワイ地域の言語・文化継承運動とモトウナ語プロジェクト」、「環南太平洋調整班報告書」A01-001。

Spriggs, Matthew. 1997. Island Melanesians. Oxford University Press.

Williams, P.H., K.J. Gaston, and C.J. Humphries. 1997. Proceedings of the Royal Society, Biological Sciences 264:141-48.

Wilson, Edward O. 1992. The diversity of life. Cambridge: Harvard University Press. [「生命の多様性」I, II、大貫昌子・牧野俊一訳。1995年。岩波書店。]

anii40.gif
トップページ